明智城の戦いは1556年に斎藤義龍と明智光安が戦った戦いです。
今回は明智家と斎藤家が戦った明智城の戦いを紹介します。
歴史好きになるきっかけや大河ドラマ麒麟がくるを見る、参考にしてみてください。

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明智城の戦いってどんな戦い?
明智城の戦いはなぜ起きたの?
明智氏は明智荘(明智城)を拠点として土岐家に仕えていました。
戦国時代に入ってからは、明智光綱が明智家当主で知られる人物となり、
美濃の国の大名となった斎藤道三(本木雅弘)に仕えました。
斎藤道三は光綱の娘小見の方を正室として迎えていたため、
斎藤家と明智家は親戚関係となります。
道三は美濃の守護土岐頼芸(尾美としのり)に代わり守護代になって、
美濃の国全土を治める戦国大名になります。
道三は後土岐頼芸を追い出し美濃の国を治める、
守護になろうとしますが家督長男斎藤義龍(伊藤英明)に譲ります。
この時初めて道三は利政から道三に名前を変えたと言われ、
道三とよく聞く名前になったといわれます。
明智家では光綱が若くして急死したため、
長男・明智光秀(長谷川博己)に家督を継がせようとしますが、
光秀は若すぎたため、叔父の明智光安(西村まさ彦)が家督を継ぎ明智城に入城します。
明智城にも桔梗がたくさん咲いていました。#明智城 pic.twitter.com/DHaWojVTb0
— はな(城郭⏩歴史) (@hinata00023) August 15, 2019
斎藤道三は小見の方を娶ってから2人の男子が生まれ、道三は溺愛し、
このことが原因で義龍は道三と争うことを決めたと言われます。
義龍はまず、弟の喜平治と孫四郎(長谷川純)を暗殺します。
これに怒った道三は義龍が殺したことに気づき、
稲葉山城の道三の館から大桑城へと向かいます。
義龍と道三は長良川で戦うこととなりますが、
美濃の家臣たちはほとんどが義龍側についき、
義龍の軍は1万ほどの兵となりました。
最初に道三が鶴山に向かったことにより戦が始まり、
道三が始め有利でしたが義龍の大軍に敗れ、
義龍に討ち取られてしまいます。
明智家はこの時道三側に付きましたが道三と同じく大敗を決します。
明智家は長良川の戦いが終わった後、斎藤義龍に出仕することはなく、
不満を持つ生活を続けていました。
岐阜県可児市の明智城。
麒麟がくるの放映で観光客が殺到していました。
石碑や説明板も新たに設置されていて、幟が多量にはためいていました。
しかし、この明智城は堀や土塁、虎口などの城の遺構は全くありません。
城跡ではない可能性が高いです。 pic.twitter.com/Uey1OzbxBB— 石川浩治 (@ieyasushingen21) February 11, 2020
長良川の戦いの記事はこちら↓

明智城の戦い
ついに光安は一族870人を集めて、明智城にこもることを決断します。
この軍には今回の麒麟がくる大河ドラマ主人公の明智光秀もいたとされています。
義龍は明智討伐軍として長井道利に3700余りの兵で、
出陣させます。
(長井道利は斎藤道三の弟と言われている斎藤家重臣)
明智軍と斎藤軍は二日間争いましたが、
明智城は光安が本丸にて自害することを決め、
明智家の仕えるものを集めて別れの盃を交わします。
明智城本丸跡です!
ドラマ館から近いって聞いたけど、城はかなり登ります❗ pic.twitter.com/4yLyacEh5k— 藤麿呂 (@mukyuuwoou) February 19, 2020
次の日、斎藤軍が明智城に総攻撃を開始します。
明智軍も奮戦して対抗しますが城へと撤退していきました。
光安は光秀に自分の長男・秀満(間宮祥太朗)と次男・光忠を連れて、
明智家が滅ばぬように城から逃がすと自害します。
明智城の戦い後
明智城で戦った斎藤家と明智家ですが戦い後は両家どうなったのでしょうか。
明智家滅亡、光秀はその後どうなったのか。
明智家は光秀が明智城を脱出して越前の国朝倉義景(ユースケ・サンタマリア)を、
頼っていったと言われます。
おはようございます
ぎふ 可児市
明智光秀生誕地として
盛り上がっていますo(^o^)o明智城大手門跡が綺麗に
“桔梗坂”として整備されていて
付近には 屋敷跡と光秀産湯の
井戸があったと伝わっています桔梗の道がとっても綺麗でしたよ#麒麟がくる #明智光秀 #戦国#明智城 #土岐氏 #東濃 pic.twitter.com/ifZp9zOUU2
— 岐阜あれこれ紀行 (@nishiyan8jp4) August 23, 2019
越前の朝倉家では鉄砲隊として活躍しています。
朝倉から足利家を紹介され光秀は、足利幕府15代将軍に仕えます。
光秀は足利義昭(滝藤賢一)を上洛させる為、
元主君・朝倉義景を頼りましたが断られてしまいます。
次に光秀が頼ったのは織田信長(染谷将太)であり、
織田信長と交渉してこれを機会に信長の家臣となります。
光秀は織田信長の下で出世していき丹波の国と、
丹後の国を治める大名となっています。
光秀は途中からの家臣とは思えない速さで出世したと言われます。
信長も光秀を頼るようになり光秀はその後も織田家の戦いなどに、
何度も出陣するようになります。
特に光秀が活躍した戦いは本圀寺の変だと言われ、この時から、
本格的に信長に仕えるようになり出世するきっかけともなりました。
本圀寺の変の記事はこちら↓

ですが光秀は信長に不満を感じたのか信長を裏切り、
本能寺で襲撃しています。
その後光秀は信長に代わり天下統一を成し遂げますが、
信長の首が見つからず領民からは疑われてしまいます。
その後は山崎の戦で信長の敵討ちとして中国地方から来た、
羽柴秀吉(佐々木蔵之介)に大敗して、逃げようとしますが、
途中で討ち取られてしまいます。
光秀の息子たちは坂本城に居ましたが、
坂本城にたどり着いた溝尾茂朝(みぞおしげとも)
からの光秀が亡くなったとの報告を受け自害したと言われます。
茂朝はこの時光秀を討った落ち武者狩りから首を
持ち坂本城に入城したと言われます。
その後の斎藤家は
斎藤家を継いだ義龍は明智城の戦いから、
五年後で病死してしまいます。
明智光秀 (*^▽^*) 歴史 講座
明智光秀生誕地が諸説あるなかで、
何故 可児の明智城誕生説が有力かを解説(ー_ー)!!
8月24日(土)#可児市 #麒麟が来る #織田信長 #明智光秀#戦国時代 pic.twitter.com/mvJdrgl75K— 岐阜あれこれ紀行 (@nishiyan8jp4) July 4, 2019
ですがその5年間は対立した織田信長から美濃の国を守り切ります。
斎藤家は義龍の長男・龍興(たつおき)が継ぎます。
龍興は家臣から憎まれ最終的に織田信長に攻められ、龍興は逃亡。
斎藤家は大名として滅亡しています。
龍興の逃亡の原因は信長に味方した竹中半兵衛が
龍興の家臣たちを寝返らせたことと、
義龍の代から仕えた西美濃三人衆が寝返ったことが原因だとされます。
(西美濃三人衆は美濃の国の有力勢力であり稲葉一鉄(村田雄浩)と氏家直元と安藤守就が
西美濃三人衆でした。)
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