天狗党の乱とはどんな戦い?武田耕雲斎と藤田小四郎の関係もくわしく解説!

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「青天を衝け」は、渋沢栄一を主人公にした2021年放送中の大河ドラマです。

先日SNSで俳優の藤原季節さんが、藤田東湖の息子の藤田小四郎役で出演し、注目を集めました。

「青天を衝け」11話では栄一と口論になって、酒を酌み交わしたりしました。

 

今回は、武田耕雲斎と藤田小四郎を中心とした一揆・天狗党の乱について紹介します。

くまのこ
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天狗党の乱について、くわしく記事にしました

くまぞう
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大河ドラマや時代劇をみる参考になるといいな~

 

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天狗党の乱とは?武田耕雲斎と藤田小四郎についておさらい

くまぞう
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武田耕雲斎と藤田小四郎の生涯について話すよ!

武田耕雲斎とは?

武田耕雲斎(津田寛治)は、1803年に跡部正継の子として産まれました。

そして藩主からの許可をもらい、武田の末裔であることを表すために武田の姓を名乗りました。

そして、水戸藩主・徳川斉昭(竹中直人)の側近として仕えました。

 

斉昭の息子の徳川七郎麻呂が一橋家に養子として入ったころには、藤田東湖(渡辺いっけい)と共に斉昭を支えていきました。

幕府で井伊直弼が大老になり、安政の大獄が始まったときに斉昭が隠居を命じられてしまいます。

水戸藩の藩士として残った耕雲斎は次の当主となった徳川慶篤を支えていきました。

 

さらに、徳川将軍・徳川家定が死去した時に大老・井伊直弼(岸谷五朗)が徳川斉昭を謹慎を受けたときには、水戸藩士の怒りが爆発し、1860年に桜田門外の変を起こします。

そして同じ年、耕雲斎が仕えていた徳川斉昭が病死します。

 

そんな中水戸藩士や藤田小四郎は耕雲斎と共に京に上洛して幕府を転覆させる策をとります。

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1864年、小四郎は筑波山にて挙兵します。耕雲斎を総大将として、水戸藩士や兵を引き連れ天狗党の乱を起こします。

 

そして、当時京にいた慶喜を通じて朝廷に尊王攘夷を訴えようと、1000人余りで西に向かいます。

しかし、美濃の国(現在の岐阜県)まで来て、大きく迂回し、福井県に到達します。

追討軍に包囲されて足止めをされているとき、幕府の追討軍の指揮を執っているのが慶喜だとわかり、天狗党は降伏します。

敦賀まで行ったときに幕府軍と戦いますが、つかまり斬首されました。

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藤田小四郎の生涯とは?

藤田小四郎(藤原季節)は、水戸の知恵者そして徳川斉昭の側近として使える藤田東湖(渡辺いっけい)の息子として生まれました。

幼い頃から、父・東湖の教えを受けて青年となった小四郎でしたが、安政の大地震で東湖が亡くなりました。

東湖は、自分の母をかばうために柱にぶつかり亡くなったと知った小四郎はその日から酒におぼれました。

くまぞう
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11話では、酒におぼれた小四郎が、栄一(吉沢亮)に叱られてたね!

 

悲しみに暮れながらも、小四郎は水戸で反乱を起こし尊王攘夷を実行しようと考えたのです。

それに協力してもらうために、父・東湖の友でもあり小四郎と親しい関係にある武田耕雲斎に願い出ます。

耕雲斎を何とか納得させることができた小四郎は、水戸の藩士や浪士・兵を引き連れて大反乱を起こしました。

ですが敦賀で幕府軍との戦に敗れ、耕雲斎とともにつかまり処刑されました。

 

耕雲斎と小四郎の関係について

耕雲斎と小四郎は、藤田東湖が生きていた時そして学友でもある東湖の息子としていつの間にか親しくなっていました。

 

耕雲斎は、よく東湖の家に行って小四郎と話していました。

小四郎からすると、学問を教えてくれる関係でもあり、耕雲斎と親しくなっていきました。

 

東湖が死ぬと、耕雲斎がかばうようにお金を貸したりしていました。

水戸を引っ張っていく耕雲斎は、斉昭が隠居して側近として水戸藩士らの世話などをしたり、お金を貸したりしていました。

 

小四郎もその一人で、斉昭が隠居する前に水戸藩に仕えていました。

そんな中、尊王攘夷を実行するという小四郎に耕雲斎はついていくことを決め、そこからは自分がリーダーとして天狗党を引っ張っていきました。

幼い頃から親しかった耕雲斎だから天狗党の乱にも参戦したのかもしれません。

 

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天狗党の乱とは?始まりから終わりまで解説!!残党についても説明

天狗党は、1864年に筑波山で挙兵した水戸藩士や兵が幕府に対して戦った乱です。

天狗党を率いるのは、武田耕雲斎で、耕雲斎を支えていたのが小四郎です。

小四郎は、水戸の兵を引き連れ耕雲斎に頼み、指揮してもらうように頼みました。

筑波山で小四郎は、横浜鎖港が一向に実行されることがない事態に怒り、軍資金を集めて元水戸藩士や浪士・兵を集めました。

 

その情報は、藩主の徳川慶篤にも伝わりやめるよう言われますが、逆効果となり、さらに兵が増えていきました。

 

天狗党の乱の主な原因は、幕府の政治や横浜鎖港そして尊王攘夷について、何もしない幕府をことが天狗党の乱を引き起こしました。

ですが、幕府を倒すわけではなく、あくまでも自分たちは幕府を守るため、徳川家康以来の幕府を守り天子様に導かれるために反乱を起こしたのです。

水戸藩主に伝われば藩士にも伝わります。そのことを知ったのが武田耕雲斎です。

 

挙兵した天狗党らは、武田耕雲斎に指揮をとってもらうように願いを出して、許しが出たときには天狗党員が300人を超えていて大軍勢となっていました。

 

栃木まで進軍した一行でしたが藩からの要請と挙兵もあり、一度撤退しました。

この時には、800人を超えて軍資金が足りなくなってきて、人々から奪ったりしていたそうです。

 

耕雲斎は、もう一度上洛を果たすことを夢に見て進軍を開始します。

しかし、このことは幕府にも知らされて幕府は出兵するように命じ、下野国や常陸国の水戸藩に近い藩に対して出兵を命じて幕府自ら軍を送りました。

大軍に勝てることができなかった小四郎の軍らは、撤退します。

そこで、兵を分けて撤退を開始しました。

小四郎は、水戸まで撤退して追ってきた幕府軍と戦いますが、水戸城下でも敗北します。

 

分かれたもう一つの軍は、追撃してきた幕府軍と戦いますが敗北して天狗党はほぼ壊滅してしまったのです。

小四郎は、天狗党を復活させるためにまた兵や軍資金・兵糧などを集めました。

 

そして、武田耕雲斎を首領に藤田小四郎などの水戸藩士を副将として中山道を通り美濃まで進軍します。

幕府軍は、諸藩に天狗党の攻撃を命じたのでしたが、その命に従ったのは高崎藩のみでした。

 

天狗党が武蔵国を通ると聞いた岡部藩は、大砲や兵を動員して天狗党に奇襲をして撤退させました。

また、天狗党は高崎藩200人と交戦して激戦の末に天狗党の軍が勝利して信州で高崎・松本連合軍と戦い勝利しました。

そのまま、進軍を止めない天狗党でしたが、京に近かった時に彦根・大垣・桑名・尾張・犬山藩の軍が構えていて北方面にむって進軍して京に行こうとしました。

 

ついに、天狗党の一行は福井県の敦賀まで進軍しました。

ですが、ここで問題が発生、慶喜に考えを聞いてもらうために進軍したものの、慶喜が幕府軍を率いてこちらにやってきたのです。

 

加賀藩らの諸藩たちは、17日まで投降しなければ幕府軍全軍で総攻撃が始まると言われて武田耕雲斎や藤田小四郎らは悩み投降することを決めました。

いざ投降して武田耕雲斎と藤田小四郎は、斬首ほかの兵士たちも斬首されて天狗党員投降した人が828人のうち352人が処刑されました。

 

天狗党の生き残り?新政府軍で倍返し!!

天狗党で投降したのが828人で処刑されたのが352人です。

他の天狗党員の者たちは、島流しや他の藩に連れられて生涯を終えたものなどがいっぱいいます。

天狗党の生き残りとして有名な人物がいます。

 

1人目が武田金次郎です。

武田金次郎は、耕雲斎の孫で天狗党員の生き残りでもあるのです。

後に成長した金次郎は、戊辰戦争で新政府軍に味方して他の天狗党の生き残りたちを集めて耕雲斎とたたかった各藩に対して攻撃を仕掛けました。

 

2人目が芹沢鴨です。

芹沢鴨は、新選組として有名で水戸藩で生まれてその才能を見込まれて天狗党にはいり、投降する数日前に脱出して新選組をつくったとも言われています。

天狗党の投稿が水戸藩に知れると、天狗党の家族も処刑されました。

1868年の戊辰戦争を機に、天狗党の残党は水戸内で勢力を巻き返し、今度は敵対していた勢力の家族を次々と処刑し報復します。

水戸藩は勇主な人材が多くいたものの、多数が内戦により犠牲となり、明治政府で要職に就いた人物はいませんでした。

 

 

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