江戸幕府の終焉⁈戊辰戦争についてわかりやすくきっかけから最後まで解説!!

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2021年の大河ドラマ「青天を衝け」の主人公の渋沢栄一は、徳川最後の将軍の慶喜に仕えていました。

その慶喜が徳川幕府に幕を下ろし、引き起こした戊辰戦争について調べてみました。

江戸終焉そして戊辰戦争が起きたきっかけから戦争終結までのことを記事に書き込みました。

 

くまのこ
くまのこ

戊辰戦争ってどんな戦争だろうね?

くまぞう
くまぞう

青天を衝けを楽しむ参考になるといいな~

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戊辰戦争とは?勃発から終焉まで解説!!

くまぞう
くまぞう

戊辰戦争は、何がきっかけで起こって

どんな風に終わったんだろう?

戊辰戦争勃発するまでの歴史の流れ

戊辰戦争は、尊王攘夷や討幕派などが集まり、長州と薩摩が手を結び帝と共に幕府を倒す戦です。

 

徳川幕府は、第11代徳川家斉の頃からすこしずつ揺らいでいきました。

12代の徳川家慶が天保の改革を進めますが失敗、家慶が亡くなると、家定が将軍に着きますが翌年になくなります。

そして紀伊藩主の徳川家茂が将軍につきました。その時に、京都で誕生したのが新選組でした。

 

家慶が将軍に着いた頃から、尊王攘夷思想の者が出てきました。

尊王攘夷は、幕府を倒し天皇を中心にするという考えです。

幕府は、将軍家の家定や家茂が就任して早く亡くなったため、混乱していました。

京都では、尊王攘夷思想の者が増えて公家たちを襲撃するという事件が増えていました。

 

そんな中、京都の尊王攘夷派を抑えるために、新選組が結成されます。

 

1863年、尊王攘夷過激派の長州藩を京から追い出したクーデターである、8月18日の政変が起こると、長州藩は幕府に大きく恨みを持つことになります。

 

1867年10月、薩摩と長州は将軍・慶喜を討伐する詔書(天皇が発する公文書)を手に入れ、朝廷は正式に幕府を倒すということを認めます。

これに対抗して慶喜は、就任してからわずかな時で将軍職を返上します。これが大政奉還とよばれています。

この時の慶喜の考えは、幕府はなくすけど、地位はそのままで徳川家は政治の中心でい続けるようにと考えたのです。実際に政治は慶喜が掌握していました。

 

この状況を打破するため新政府軍は、1867年12月9日、王政復古の大号令を出します。

幕府が廃止され、総裁、議定、参与の三職が設置され、慶喜には将軍をやめ、領地を取り上げることを決定します。

総裁は皇族の有栖川宮、議定は有力藩主、参与とは実力のある有力藩士を指します。

 

これに対し幕府側と新政府側との対立が悪化し、戊辰戦争が勃発しました。

戊辰戦争の戦いを個別に説明していきます。

 

戊辰戦争、京都と伏見が落とされ徳川慶喜が途中で退却?鳥羽・伏見の戦い

 

戊辰戦争とは、1868年鳥羽・伏見の戦いが最初となり、翌年5月五稜郭の戦いで終結した日本の内戦です。

くまぞう
くまぞう

戊辰の年に起こったから戊辰戦争と名付けられたんだね!

会議の決定を拒否した徳川慶喜は大阪から京都に向けて進軍します。

1868年1月3日、京都の南の鳥羽・伏見の地で新政府軍と衝突します。

 

主な参戦戦力 新政府軍    5000人 主な参戦戦力 旧幕府軍   15000人
薩摩藩 幕府陸軍 会津藩
長州藩 京都見廻組 桑名藩
土佐藩 など 新選組 など

 

両戦力は、新政府軍5000人に対して旧幕府軍は15000人の戦いです。

 

1月4日に天皇の旗である錦の御旗を新政府軍が掲げ、旧幕府軍は激しく動揺し、新政府軍に寝返る藩も出てきました。

 

新政府軍が使う最新型の武器などで、押しに押されて旧幕府軍は壊滅寸前まで陥りました。

そしてその後、撤退します。

 

撤退してもなお、新政府軍を倒そうとする者の反対を押し切り将軍・慶喜は海路で江戸へ逃げていきました。

手痛い敗戦もあり、旧幕府軍の士気は下がりました。

 

戊辰戦争、新選組大活躍?甲州勝沼の戦い!!

3月、慶喜らの旧幕府軍に対して追討令が発せられ、新政府軍は江戸へ進軍します。

迎撃のため、甲府城へ向かった新選組と新政府軍が甲州勝沼で交戦します。

お互いの兵力や戦力を見ていきましょう!

 

主な参戦戦力   新政府軍    400人 主な参戦勢力   旧幕府軍    310人
土佐藩 迅衝隊 甲陽鎮部隊
鳥取藩 山国隊 (新選組)
諏訪藩 など 春日隊 など

 

新政府軍は、400人で戦いに挑みます。名を改めた新選組も旧幕府軍として参加しました。

新政府軍の指揮官は、板垣退助、谷干城などが指揮官をつとめます。

旧幕府軍は、近藤勇、土方歳三らが指揮を取りました。

 

3月29日、戦いは、甲陽鎮部隊の突撃から始まりました。

甲陽鎮部隊は、新しい武器を取り入れていましたが戦いでの取り入れに時間かかったり不慣れだったため敵方の大砲や板垣退助が指揮する迅衝隊にやられていました。

 

甲陽鎮部隊は、敵方にやられていながらも後退しながら戦闘を続けます。

 

しかし、会津藩の援軍が来ないと知った近藤勇、永倉新八、土方歳三が退却を始めて徐々に兵が減り、最終的には壊滅。別々の道に逃げていった近藤と土方は合流しました。

 

新政府軍の板垣退助は圧勝します。

この戦いがきっかけで、幕府から離れるものもいました。

 

戊辰戦争、新政府軍が北上を開始宇都宮城攻防戦が始まる!!

鳥羽伏見の戦いで朝敵となった旧幕府軍に対して新政府軍が江戸総攻撃を決定します。

しかし旧幕臣の勝海舟と、薩摩藩の西郷隆盛と話し合いがもたれ、4月11日、江戸城無血開城となり、江戸は火の海を避けることができました。

新政府軍は北上し、宇都宮藩の宇都宮城で戦うことになりました。

では、宇都宮城攻防戦の戦力を見ていきましょう!

 

主な参戦戦力   新政府軍    700人 主な参戦戦力   旧幕府軍    1000人
   岡山藩    新選組
   薩摩藩   会津藩士
宇都宮藩など  桑名藩など

第一次と第二次があります。

第一次は、新政府軍700人と旧幕府軍は1000人で戦いました。

第二次は、新政府軍の援軍があり20000人に旧幕府軍は2000人に増えていました。

 

宇都宮城攻めは、土方歳三率いる2000人が満福寺に本陣を構えて新政府軍がいる道をさけて、宇都宮城に向かいました。

旧幕府軍たちは、土方に続いて宇都宮城の城下町に火をつけます。

 

 

新政府軍たちは、兵を集めて宇都宮城から撤収しました。

新政府軍が撤収したことで、第一次宇都宮城攻防戦は終わりました。

 

第二次宇都宮城攻めは、薩摩藩兵による宇都宮城奪還から始まります。

薩摩藩兵たちは、宇都宮城を取り囲み、旧幕府軍たちがいる門や砦に攻め込みました。

また、宇都宮城の近くの壬生城も土佐藩兵との激戦化で旧幕府軍も徐々に押されていました。

 

新政府軍は、激しい戦地で新兵器を使い旧幕府軍を蹴散らして宇都宮城を奪還します。

その後、宇都宮城は新政府軍の軍事拠点になり会津戦争などで活躍します。

 

戊辰戦争、彰義隊壊滅と上野戦争勃発

 

宇都宮城攻防戦が終わり鯨波戦争が勃発後に上野戦争が起きました。

旧幕府軍は、どのように対抗して新政府軍を抑えたのか参戦戦力を見ていきましょう。

 

主な参戦戦力   新政府軍   10000人 主な参戦戦力   旧幕府軍    4000人
   薩摩藩    彰義隊
   長州藩
佐賀藩 など

 

旧幕軍は、開戦時は1000とも言われています。

渋沢喜作が彰義隊を結成しましたが、仲間割れがあり天野八郎が指揮をとっています。

新政府軍は、策士の大村益次郎が指揮をとりました。

彰義隊は、黒門口で新政府軍の攻撃を受けときます。

西郷軍が指揮する薩摩藩の軍勢は、フランスやイギリスで入手したアームストロング法

などで黒門口を破壊しながら攻め込みます。

4000人がいた彰義隊でしたが、千を超える薩摩藩兵たちの猛攻に徐々に押され始めます。

新政府軍の大村益次郎は、江戸城にいました。

 

彰義隊を仕切る、天野八郎は彰義隊の士気を取れない状況になっていました。

彰義隊は、新政府軍の新兵器にやられていきました。

大村益次郎は、西郷に指揮をとらせていました。新政府軍は、新兵器で旧幕府軍を蹴散らします。

上野戦争は、彰義隊が壊滅のこりの部隊が撤退を始めて新政府軍の勝利で終わりました。

上野戦争後に起きた飯能戦争で、渋沢平九郎が戦死しています。

 

上野戦争、飯能戦争に続く北越戦争激しい戦いが始まる!

 

上野戦争が終わり飯能戦争が終了した後に起こった北越戦争を紹介!

まず、お互いの戦力を見ていきましょう!

 

主な参戦戦力   新政府軍 主な参戦戦力   旧幕府軍
   長州藩    長岡藩 米沢藩 など
薩摩藩 など    桑名藩
   会津藩

 

兵力では、どちらも多くの兵がいたとされています。

激戦地は、長岡城になります。

河合継之助率いる兵がまず、城を明け渡します。

継之助は、あくまでも長岡藩は戦う気はないと思わせたかったからです。

見事に作戦が成功、新政府軍は長岡城に入ります。

主な司令官として、旧幕府軍には河合継之助、新政府軍には山県有朋、黒田清隆

がいました。

 

城を明け渡し、継之助率いる軍勢は長岡城奪還のために戦闘を開始します。

激しい戦闘になりました。

長岡城では、いきなりの戦闘に焦りながらの士気を取っていました。

継之助は、次に精鋭部隊である軍を向かわせて町などを占拠します。

さらに、長く続いた戦闘にくたびれた新政府軍を攻めました。

長く続く戦闘の結果、継之助の軍がついに本丸を落とし前線は旧幕府軍の勝利

に終わりました。

 

ですが、猛烈な攻撃を与えていましたが長岡藩も河合継之助が負傷していました。

その後、旧幕府軍は中条に行って中条で新政府軍を破ります。

ですが、中条陥落と共に長岡城陥落を耳にした継之助は中条を焼きました。

そして、会津に落ち延びることを試みましたが途中で破傷風にかかり亡くなりました。

こうして、北越戦争は中条陥落、長岡城陥落、河合継之助の死で終わりました。

 

戊辰戦争、ついに会津戦争勃発で旧幕府軍が衰退!!

 

会津戦争は、会津藩が降参したにもかかわらず戦争を起こした戦いです。

お互いの戦力を見ていきましょう!

 

主な参戦戦力   新政府軍   75000人 主な参戦戦力   旧幕府軍    9400人
薩摩藩 佐土原藩 岡山藩 会津藩 幕府陸軍
長州藩 人吉藩 水戸天狗党 棚倉藩 伝習隊
土佐藩 中津藩 米沢藩 仙台藩 衝鋒隊
三春藩 小倉藩 紀州藩 中村藩 凌霜隊
佐賀藩 岩国藩 尾張藩 福島藩 諸政党
大村藩 広島藩 彦根藩 など 二本松藩 新選組

 

新政府軍は、長州藩と薩摩藩、土佐藩が主な主力となり旧幕府軍と戦います。

旧幕府軍は、会津藩と仙台藩が先頭に立って戦いました。

有名な新選組ですが、このとき近藤勇は処刑されており沖田総司が亡くなっていて斎藤一

と土方歳三が指揮をとる状況になっていました。

 

旧幕府軍は、松平容保と大鳥圭介と山川大蔵が指揮をとっていました。

新政府軍は、板垣退助と伊地知正治が指揮をとっています。

長い時間が続いた戊辰戦争最大と言える戦いの会津戦争をくわしく見ていきます。

※何個かの戦いに分けて短く解説します

 

・白川口の戦い(会津戦争第一戦目)

会津戦争第一回目の戦争として、白川口の戦いが行われました。

当時白川藩は、藩主不在となっていた為手薄だった白川藩を落とそうと新政府軍が動き

出しました。

旧幕府軍は、それに応じて西郷頼母を総督として出陣しました。

新政府軍は、白川口城に攻撃を開始して城を落城させました。

旧幕府軍は、新政府軍が白川口城を落としたのを知ると急いで奪還しようとしましたが

失敗しました。

旧幕府軍が撤退したのを見て白川口の戦いは、終了しました。

 

・二本松の戦い

新政府軍が白川口を攻撃している間に、旧幕府軍が兵の大半を動員させているのを知って

北上するために二本松藩を攻めました。

二本松城は、落城します。

藩主の丹羽長国は、米沢に逃げ延びました。

また、会津戦争の悲劇と言われている二本松少年団の悲劇もこの城攻めで起きました。

 

・若松城下への侵攻攻撃

新政府軍は、意見が分かれた中でも会津藩を攻撃することを決定します。

会津藩に行く道は、何個かある中の母成峠に行きました。

新政府軍は、怒涛の勢いで旧幕府軍を母成峠の戦いで旧幕府軍を破って朝には若松城下

まで到達して会津藩はそれにびっくりして青年を編成した白虎隊までもを出陣させ

ることになったいました。

 

さらに、城下町で起きた火事を若松城落城だと思った白虎隊たちの隊士たちが自害する

という事件が起きました。

 

・降伏しようとする会津藩

会津藩は、城下町までもが占領されて跡が亡くなっていました。

その頃、白川口藩や二本松藩は奥羽列藩同盟から抜けるなどと言う混乱が起きていました。

奥州では、孤立した会津藩を助けることができない徳川軍もいました。

会津藩は、苦痛の決断で新政府軍に降伏することを決めました。

 

藩主・松平容保は、処刑になるところでしたが他の新政府軍の者に説得されてなんとか

親子で江戸に行くことが決まりました。

 

こうして、会津戦争が終わったのです。

 

くまぞう
くまぞう

あれ?

なんで会津藩は、新政府軍に戦争を起こす前に降伏していた

のに戦いたくなかったのに争ったんだろう?

くまのこ
くまのこ

それはね、昔会津藩に長州藩が長州征伐で痛い目に合ったから

大きな恨みを持ったいたんだよ

 

戊辰戦争、宮古湾海戦ついに旧幕府軍が蝦夷(北海道)に?!

 

新政府軍が北上を開始して、会津戦争で負けた手痛い敗戦もあり奥羽列藩同盟は

崩れ旧幕府軍は蝦夷に行きました。

その第一戦として、宮古湾海戦を説明します。

 

主な参戦戦力 新政府軍軍人 軍艦4隻 主な参戦戦力 旧幕府軍軍人 軍艦3隻
増田虎之助 蝦夷共和国
中島四郎 荒井郁之助
海軍 など 甲賀源吾など

 

お互いの戦力です。

イギリスやフランスと貿易している新政府軍は、軍艦や軍用船が多くあります。

戦いの始まりは、旧幕府軍が新政府軍の軍艦を奇襲して奪うという旧幕府軍の作戦から

始まりました。

 

戦いは、旧幕府軍3隻の軍艦が宮古湾に向かいます。

ここまでは、とても順調でした。

ですが、突然異変が起きます。

なんと、軍艦の回天を除く2隻が故障してしまったのです。

回天の船員たちは、急いで戻るべきだと主張しましたが回天の荒井郁之助は反対新政府軍

軍艦の甲鉄を急いで奪うために1隻で宮古湾に向かいます。

 

しかし、これが旧幕府軍の敗戦する原因になったのです。

旧幕府軍が宮古湾に着いた時、甲鉄に回天をくっつけて攻撃をしようとします。

ですが、またこれも旧幕府軍がミスしてします。

回天の船の乗り込む部分が、甲鉄よりもものすごく高くて降りることができなかったのです。

降りても、甲鉄に乗ると兵たちが撃ってきます。

なので、甲鉄に乗ることができませんでした。

回天の甲賀源吾が降りようとしましたが、中に討たれて即死しました。

 

宮古湾海戦は、旧幕府軍の大敗により終わりました。

 

ついに戊辰戦争終決へ?!土方歳三死す箱館戦争勃発‼

 

戊辰戦争最後の戦いとして、箱館戦争が勃発しました。

お互いの戦力を見ていきましょう!!

 

主な参戦戦力   新政府軍    9500人 主な参戦戦力   旧幕府軍    3500人
長州藩 蝦夷共和国
薩摩藩 彰義隊
土佐藩 など

 

奥羽列藩同盟が崩れて、会津藩が降伏したことで旧幕府軍は蝦夷に行き蝦夷共和国を

開き最後まで新政府軍に対抗する動きを見せました。

これに対して、新政府軍は会津城陥落と共に宮古湾海戦で勝った軍を戦場に送りました。

新政府軍は、圧倒的な数の差で旧幕府軍をつぶそうとしました。

新政府軍は、旧幕府軍を函館まで追い込みました。

そして、箱館と函館山そして弁天台場に別れさせました。

そこには、旧幕府軍味方の新選組がこもっていました。

 

新政府軍は、バラバラになっている旧幕府軍を見て函館山にいる軍勢に奇襲をかけます。

旧幕府軍は、とつぜんの奇襲攻撃により函館山は陥落する直前でした。

その時、新選組は弁天台場にこもりました。

土方歳三率いる新選組は、弁天台場にいる新選組を助けるために土方隊が弁体台場に向けて

出陣しました。

ですが、新政府軍の銃により戦死しました。

土方の死は、旧幕府軍に大きな影響力を及ぼしました。

さらには、遊撃隊を率いる伊庭八郎が毒を自ら飲んで死去そして旧幕府軍率いる柄本武明が

新政府軍に降伏しました。

 

こうして、1年以上続いた戊辰戦争は箱館で幕を閉じました。

幕府を倒させないようにした旧幕府軍の諸省たちは、新政府が進める近代化を見ていくことに

なるのです。

 

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まとめ

新政府軍と旧幕府軍との戦いは、鳥羽伏見の戦いから始まりました。

旧幕府軍を追い詰めるために、新政府軍は東北を目指します。

徐々に北上する新政府軍を倒すためのそして、攻めるための動員数は大きくなって会津や

戦争や上野戦争の戦いが戦死者を多くなっていきました。

箱館にこもったものの、旧幕府軍は圧倒的な兵数で木端微塵にされて旧幕府軍の主な軍を

仕切る榎本武明が降伏したことで戦争は終結しました。

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