今から150年ほど前は、幕末から明治時代という日本が大きく変わった時代でした。
徳川幕府という政権が倒れ、新政府が成立します。そんな中で、時代を大きく支えた人物がいました。
後に「維新の三傑」と呼ばれる、西郷隆盛・木戸孝允・大久保利通です。
今回は、維新の三傑と呼ばれた西郷隆盛・木戸孝允・大久保利通について記事にまとめました。


維新の三傑とは?明治に活躍した三人の偉人を解説!!

幕末から明治維新にかけて、日本は大きく変わりました。
徳川幕府が倒れ、天皇を中心とした中央集権国家を作り、新しい社会体制を取り入れて、外国と対等な関係となる国家を作ることを目指しました。
その中で、特に活躍した大久保利通、木戸孝允、西郷隆盛の3人を維新の三傑と呼んでいます。
西郷隆盛とはどんな人?明治にどうやって活躍したのか?
西郷隆盛は、波乱に生きた人でした。
最期は、日本で最後の内乱である西南戦争で自害するという壮絶な死でしたが、時代に大きな影響を与えた人物です。
西郷隆盛出世して、薩摩藩で活躍
西郷隆盛は、1828年、薩摩藩の下級武士の子供として生まれました。
幼い頃から優秀で、友達の大久保利通とともに武芸や学問に励んでいました。
出世して、畑の米の量などを測る仕事になります。
西郷は、当時薩摩藩主の息子・島津斉彬に年貢の量を減らしてほしいなどの嘆願書を提出していました。
西郷は、斉彬に力を見出されて参勤交代ではお供をさせるなどの出世を果たします。
斉彬について出世していった西郷でしたが、斉彬は、上洛の途中で亡くなります。西郷は斉彬の死をとても悲しみ、力を落としました。
しかしその後、大久保利通に呼ばれて薩摩のために力を尽くしました。
西郷ついに戦争へ。明治政府を支える大きな柱に!!
西郷は大久保利通と話し合い、朝廷とも話し合った後に幕府を朝敵とし、長州や土佐連合ついに幕府討伐に乗り出したのです。
西郷は圧倒的な兵力差を見せられるも、教養で身に着けた学問などで敵を敗北に追いこみます。
上野戦争では、薩摩軍を指揮して黒門で彰義隊と戦い勝利などの大きな功績を残しました。
さらには、箱館戦争で薩摩軍を指揮して新選組に奇襲をかけ討幕が成功、日本も列強国になるために動き出すため大きく貢献しました。
西郷はいがみあう士族たちを束ねることに苦心しますが、新政府に徐々に不満を募らせる士族たちの矛先を外へ向けるため、征韓論を主張します。
しかし、大久保利通らの反対を受け、西郷は中央政府から退いて薩摩へ戻り、私学校を設立します。
西郷は、異国から攻められても日本が守れるようにと学問や武芸を広めます。
西郷を慕う若者たちが私学校へ多く集まったため、明治政府から危険分子として警戒されてしまいます。
新政府は弾圧しようと動き、私学校の生徒たちは、政府の弾薬庫に火をつけてしまったのです。このことをきっかけに、西郷は、明治政府と戦うことになったのです。
明治政府を指揮するのは、大久保利通・・西郷の昔の友達でした。
西郷は、最後まで政府軍と戦い敗北した時に自害しました。
西郷が維新の三傑に選ばれる理由とは?
西郷は、数々の功績を残しました。
討幕の中心的な役割を果たした長州藩と薩摩藩を結び付ける薩長連合を結んだことや、江戸城を無血開城させるという大きな役割を果たします。
明治に入ってからは、廃藩置県を実行します。
また人望が厚く、だれからも好かれたため、薩摩に戻ってから私学校を設立すると、多くの若者が集まってきました。
そのことが身を亡ぼすことになってしまったのですが、西郷の功績はのちの世にも伝えられて三傑にふさわしいといえるでしょう。
木戸孝允とはどんな人?何をしたの?
木戸孝允は、1833年に長州藩の藩医・和田昌景の長男として生まれました。
7歳で長州藩主の桂家の養子となります。
幼い頃から病弱でしたが、非常に優秀で剣術や学問にも長けていました。
吉田松陰に弟子入りして学問を習得します。師弟として、友人としてという関係でした。
元服して桂小五郎と名乗ります。
1854年にペリーが来航し、開国を迫ります。時代が大きく変わることを感じた小五郎は長州藩で出世して藩を討幕へと向かわせます。
1865年に藩主から「木戸」の苗字を賜ります。
坂本龍馬に押されて小五郎は、薩摩の代表・西郷隆盛と手を結び、薩長同盟が成立しました。
明治に入ってからの活躍
新政府成立後には参与に就任し、明治維新の基本方針を定めたり、版籍奉還や廃藩置県を進めていきました。
1871年に岩倉使節団に参加して、海外の国の憲法を研究します。
古い制度を解体して諸国と対等に渡り合えるような近代国家を目指して、憲法を早急に成立させることが必要だと考え、西郷隆盛の征韓論には、大久保利通たちと同様に反対しました。
征韓論には大きく反発したものの、西郷とは仲が良かったそうです。
西郷隆盛が新政府軍と戦った西南戦争中に京都で病死します。亡くなるまで西郷のことを心配していたそうです。
大久保利通ってどんな人?
大久保利通は、維新の三傑の中で、最も長く政治家として活躍しました。
大久保利通の生涯と明治にどのような、功績があるのかを見ていきましょう!
大久保利通どんどん出世!
大久保利通は、1830年に薩摩の国で生まれ、西郷隆盛とともに出世を重ねていきました。
頭がとてもよく西郷隆盛と共に、薩摩藩主・島津斉彬の警護などを行います。
大久保利通は、島津斉彬が亡くなると、西郷隆盛と共に薩摩を支えていきました。
やがて、2人は幕府討伐を考え、長州と手を組んだ後に朝廷と話あって兵を動員して倒幕に動き出します。
木戸孝允とは、話が合い長州から援護を受けながら、大久保は策士として新たな政治をするために奮闘してます。
大久保利通は、どうやって明治に活躍したの?
明治時代に入ると西郷と新しい政治や文化などを取り入れて日本を列強国にしようとしていました。
中央集権体制を積極的に推し進めます。
大名の土地と人民を朝廷に返す「版籍奉還」や、藩をなくして府や県を置いた「廃藩置県」を実行していきます。
1871年、岩倉使節団として欧米を視察して西洋の技術や文化を見て衝撃を受けます。
帰国後、内務省を設置し、内務卿(ないむきょう)に着任して、学制、地租改正、徴兵制などの政策を行います。現在の内閣の基礎は大久保が築き上げたといわれています。
また富国強兵をスローガンとして、産業の機械化や鉄道網の整備などを推し進めた殖産興業政策を推進します。
日本国内の政治を早く近代社会に近づけるために注力する大久保利通は、西郷隆盛が朝鮮を武力で開国させようとする征韓論には反対を唱えます。
このことがきっかけとなり中央政府をやめた西郷隆盛は、西南戦争で亡くなります。大久保利通は非常に動揺します。
西郷がなくなった翌年、大久保利通は不平を募らせる武士に暗殺されてしまいました。
大久保利通は、数々の功績を通して明治政府に貢献しました。
まとめ
今回は、明治維新に活躍した3人の維新の三傑西郷隆盛・木戸孝允・大久保利通についてまとめました。
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