2021年大河ドラマ青天を衝け。
青天を衝けでは、渋沢栄一を主人公にして近代未来に近づけた生涯を描いた大河ドラマですが
近代未来に近づけようとした幕臣がいました。
その幕臣は、江戸城に行く際に桜多門で水戸藩や土佐藩の脱藩藩士に暗殺されました。
大老・井伊直弼です。
今回は、青天を衝けにも出演している井伊直弼と桜田門外の変について解説しょうと思います
桜田門外の変で暗殺された井伊直弼とはどんな人?
井伊直弼って、悪政を行って暗殺されたイメージだけど
どんな人なのかな?
井伊直弼の生涯・大河ドラマの主人公激動の人生
井伊直弼は、彦根藩代13代当主・井伊直中の子供として生まれます。
父の死後、14男だった自分を花の咲くことのない埋もれ木に例え、埋木舎(うもれぎのや)と名付けた邸宅で17歳から32歳まで住み続けます。
跡継ぎになったり、養子になるということもありませんでしたが、直弼はそこで武芸や学問にはげみます。
その他にも能や茶道、禅などにも精通していきました。
1846年32歳の頃、後を継ぐはずだった兄が亡くなります。
直弼は35歳で彦根藩主となります。その頃、彦根藩は財政が厳しい状態でした。
直弼はいろいろな改革を行います。彦根藩の井伊家というのは、徳川四天王の1人・井伊直政を祖とした将軍家とは特別な関係で、大老という役職になれる家系の1つでした。
大老は老中の上に臨時におかれた最高職だよ!
大老になれる家は井伊家、酒井家、土井家、堀田家に限られていたのよ。
将軍家を支える大切な家柄であることを直弼は強く意識し、藩の改革を進めていきました。
1853・54年とペリーをのせた黒船が来航します。外国船を打ち払ってしまえと主張したのが水戸藩主・徳川斉昭でした。
井伊直弼と佐倉藩主・堀田正睦は、外国船を打ち払うなど、もはやできるわけはないので和平の道を探るべきと、この意見に対立します。
この時までは直弼と徳川斉昭は良好な関係でありました。
この対立が後の安政の大獄を引き起こし、最後に桜田門外の変という事件につながっていきます。
その頃の日本は、大地震が何度もやってきたり、コレラが流行したりと国難が次々と降りかかっていました。
そんなところに現実的に折り合いをつけて外国と渡り合おうとする直弼に、徳川斉昭はとにかく異国を排除せよの一点張り。また、朝廷も斉昭と同じようにとにかく攘夷の考えでした。
直弼はそんな朝廷であっても共にこの国難を乗り切ろうと試みます。
1858年7月29日、直弼はまず条約を締結させてから、朝廷と協調することを目指し、日米修好通商条約を締結します。
しかしこれを朝廷をないがしろにしたと水戸藩は猛反発します。
さらに直弼は、徳川斉昭の息子・一橋慶喜と将軍継承問題で対立していた徳川慶福を次期将軍にすることを公表します。
1858年8月、朝廷は水戸藩にこの条約締結の説明と、幕府と協力し公武合体を進めて、幕府は攘夷推進の幕政改革をするよう命じました。
朝廷から幕府を飛び越えて水戸藩に直接勅書が渡されたこの密勅を、戊午の密勅(ぼごのみっちょく)といいます。
朝廷からの勅書が幕府を差し置いて水戸藩に下されたことを重大な問題と受け止めた直弼は、水戸藩に対して関係者の処罰をします。
直弼は一橋派の者たちを左遷や斬首など粛清していきます。これを安政の大獄といいます。
安政の大獄には水戸藩の他、長州藩の吉田松陰、越前藩の橋本左内(小池徹平)など、70名以上の志士や幕臣たちが遠島、謹慎となりました。
安政の大獄で朝廷と関係の深い水戸藩は特に厳罰となりました。
そのため幕府を変えるには、井伊直弼を殺害するほかないとして、脱藩した水戸藩士と一部の薩摩藩士により、1860年3月24日、井伊直弼は江戸城・桜田門外で暗殺されました。
これが桜田門外の変です。
井伊直弼は46歳の生涯をとじました。
井伊直弼の激動の生涯は、NHK大河ドラマの第1回「花の生涯」で描かれました。
井伊家については下の記事も参考にしてください。
https://historywithkids.com/jihen-sakuradamon02/
井伊直弼の生涯と「青天を衝け」の井伊直弼演じる岸谷五朗についてまとめた記事はこちら↓
井伊直弼が残した功績と人柄
まず、井伊直弼が大老に就任して最初にしたことは幕府の時期将軍を決めることでした。
一橋派と南紀派の派閥が対立していましたが、直弼は家茂を次期将軍と公表しました。
しかしその考えは、消極的であったと言われています。将軍・家定の意向もありましたが、外交政策が真っ向から対立している徳川斉昭が父である一橋慶喜を推すわけにはいかないということだったようです。
また日米修好通商条約を締結した際、朝廷をないがしろにして天皇の許しを得ず、勝手に条約を結んだと言われていますが、井伊直弼は最後まで勅許なしの締結には反対したと言われています。
1858年の7/29の閣議においても最後まで勅許を優先させることを主張していました。
追い詰められた状況でも最後まで朝廷と協調しようとしていたのです。
その他に直弼は、幕府の改革や外交を進め、将軍職に就く家茂(磯村勇斗)の側近として活躍しました。
オランダや米国・アメリカ・ロシアなどの通商条約を結んでアメリカから物を仕入れたりします。
日本を近代化に近づけるために、異国との交渉をさらに進めようと考え、日本にやってきたハリスからの話を聞いて幕府の体勢を変えようとしていました。
桜田門外の変の詳細を解説・井伊直弼の暗殺後の幕府は?
桜田門外の変は、井伊直弼が城を出たときに奇襲を仕掛けられた暗殺事件です。
最初に、水戸藩士や藩を脱藩した者たちが集まり井伊直弼を討ち取る計画を立てます。
計画した者たちは、集まり銃や刀を持って桜田門に集まりました。
彦根藩士の井伊直弼は、彦根の軍を率いて城を出ます。
この時、冬で軍と言っても飛脚のような恰好の者がほとんどで襲撃されたらひとたまりもない状況でした。
直弼は、寒い中籠のなかで江戸城に向かいます。
そして、兵士たちが城を出たときに1人の武士が直弼の籠に向かって発砲しました。
その合図とともに、20名ほどの武士が兵士に向かって突撃を開始します。
兵士たちは、刀が抜けなくて素手で刀を受け止めようとして指や耳を切り落とされました。
奇襲を受けた彦根側も何とか抵抗し彦根一の剣士が出陣して直弼を守ろうとします。
兵士たちは、20人ほどの武士たちに次々と切られていきました。
そんな中、井伊直弼が籠から引きずり出されました。
この時、井伊直弼は銃創で動けなず、小さい頃に鍛錬した居合を振るうこともなく討ち取られたのです。
井伊直弼の率いる彦根藩は60人以上いたとされますがわずか数分で井伊直弼は暗殺されてしまいます。
計画を実行したのは、水戸藩出身が17人と薩摩藩出身が1人のわずか18人でした。
血気盛んな浪士たちの復讐の思いの強さがうかがえます。
桜田門外の変以後の幕府について
桜田門外の変は、幕府に大きな影響を及ぼしました。
江戸幕府が始まって以来、江戸市中で大名の籠を襲撃されたことは初めてのことだったからです。
大老という職の人物が暗殺されたことで、江戸幕府の権威は大きく失墜します。
日本各地で尊王攘夷運動がさらに激化していきました。
そしてその7年後の1867年に徳川慶喜によって大政奉還がなされ、江戸幕府が終わる始まりとなったのでした。
暗殺の知らせを受けた彦根藩内では、当初井伊直弼の死は隠されて、幕府には「井伊直弼は、闘病中である」としました。
彦根藩は、藩主が突然暗殺されて、世継ぎも決まっていない状態だったのです。
直弼の死を隠して病気療養中とし、側室の子を嫡子とし、1か月後井伊直弼の死が発表されました。
桜田門外の変後の井伊家については下の記事でまとめてあります。
https://historywithkids.com/jihen-sakuradamon02/
大河ドラマ「青天を衝け」では桜田門外の変は第9話で描かれています。
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