徳川幕府の最後の将軍は、徳川慶喜です。
徳川慶喜は、二つのこころ(例 本当は長州藩と戦い徳川幕府を守ると言っときながら大政奉還をする)を持っていることから二心殿と呼ばれていました。
慶喜は、2021年大河ドラマ主人公の渋沢栄一の主君としても活躍していました。
今回は、二心殿・徳川慶喜の選択と生涯について解説します。
記事には、青天を衝けのネタバレを含む
場合があります。
ご注意ください。
大河ドラマや時代劇などを楽しむ参考になるといいな~
二心殿・徳川慶喜の選択と生涯を解説!!
徳川慶喜は明治に入ってからは、
どのような生活を過ごしたんだろう?
徳川慶喜の生涯とは?波乱に満ちた生涯を解説!!
徳川慶喜は、1837年に江戸の水戸藩邸で水戸藩主・徳川斉昭の7男として産まれました。
徳川慶喜は、生まれて3歳ほどになったときから水戸藩の徳川光圀の教訓を習わせていました。
5歳ほどから武芸に励むようになり、弓や剣術を特訓しました。
慶喜は、斉昭からの命令で追い鳥狩りという訓練において狩りを慶喜が行いました。
この追い鳥狩りや斉昭の教訓をもあり、時の将軍・徳川家慶からも目をつけられて当時家の当主がいなかった一橋家に養子入りします。
徳川家慶からは、能などを習っていたそうです。
そして、太平洋側の海岸に黒船が来航し将軍・徳川家慶が死去しました。
慶喜は、このときに徳川家慶の子である徳川家定と将軍問題(将軍候補問題)でもめます。
結果、家慶の血が一番近いそして徳川宗家である徳川家定が将軍になりました。
このときは、まだ慶喜は将軍になりたいという気持ちはなく全面的に動いているのは松平春嶽や平岡円四郎・橋本佐内・島津斉彬などの武士たちでした。
その動きは、将軍の徳川家定からも見られていて、家定は会議では松平春嶽を恨むようになっていました。
そして、徳川家定が将軍職に就任したものの家定は病弱で男子を儲ける見込みがなくまた将軍候補問題が勃発します。
慶喜ともめたのは、紀州藩藩主の徳川家茂です。
家茂は、10歳半ばで紀州藩の藩主の座になりますがその才能は他国から目を付けられ頭がよくて将軍候補問題では将軍の家定の血筋に一番近いためにかなりの多くの幕臣から選ばれました。
実際には、慶喜と家茂は将棋を打つほど仲が良かったそうです。
この時も、慶喜が自分から立候補しなかったことや将軍の家定が家茂を推薦したことで徳川家茂が次期将軍となりました。
この時の大老には、井伊直弼が就任していて自ら家茂を推薦したり幕府を裏で動かしていて独裁政治が始まっていました。
そこで幕府では、将軍の家定が突然病死して家定の遺言と言って井伊直弼が慶喜を謹慎と登城禁止の命にさせました。
この家定の遺言には、慶喜の父・斉昭も罰を着せられて謹慎にされました。
この井伊直弼の独裁政治もあり、水戸藩士や薩摩藩士らは桜多門外で井伊直弼を暗殺しました。
この井伊直弼の死は、一時は好調だったものの幕府の弱体化を決定づけることになるのです。
そして、この数日後に斉昭が病死しました。
この死を知らされた慶喜は、悲しみ井伊直弼や幕府の井伊派に恨みを持ちました。
幕府では、政治を老中の安藤対馬守(安藤信正)が担っていました。
その、老中・安藤対馬守を暗殺しようとした者たちが起こしたのが坂下門外の変です。
ですが、安藤対馬守は討ち取れず失敗に終わったのです。
このとき、慶喜は謹慎からもどっていました。
慶喜は、幕府と交渉を行い慶喜が将軍後継職で松平春嶽が政治総裁職という役職になりました。
慶喜と春嶽は、文久の改革とよばれる改革を行い京都守護職の設置、参勤交代を緩和させるなど幕府内での政治を春嶽と二人でこなしていきました。
慶喜は、徳川政権を守るためにたとえ公家だとしてもスキのない態度をみせました。
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