麒麟がくる2話の戦いは加納口(かのうぐち)の戦いです。
道三は美濃のマムシと言われ、信秀は尾張の虎と言われる、2人の戦いです。
今回は信長と帰蝶の結婚のきっかけにもなったと言われる、加納口の戦いについてまとめました。
歴史好きになるきっかけや麒麟がくるを見る参考にしてみてください。
加納口の戦いってどんな戦い
加納口の戦いが行われた理由
斎藤道三(本木雅弘)は主君であった土岐頼芸(尾美としのり)を追い出して、
美濃の国の守護になろうとしていました。
土岐頼芸(尾美としのり)と息子頼次は尾張の国の大名織田信秀(高橋克典)を頼って、
信秀に何度も道三を攻めるように書状を送ります。
(書状は現在の手紙のようなもの)
織田信秀(高橋克典)は駿河の国・遠江の国の大名今川義元(片岡愛之助)と、 三河の国を巡って争っていました。
信秀は義元と3回ほど戦っていて美濃の国を攻められるほど余裕がありませんでしたが、
いつか頼芸と協力して美濃の国を攻めようとたくらんでいまた。
加納口の戦い
ついに信秀は道三を攻めるために2千~3千の兵で、
美濃の国へと進行していきました。
道三はこれに対抗するために居城・稲葉山城で、
織田軍を迎え撃ちますが、道三はいきなり籠城戦に持ち込みます。
家臣たちは不満を持つばかりで、
兵も織田軍と戦い士気は上がってもいませんでした。
信秀は道三が有利なはずなのに道三が籠城戦を持ち込んだので、
籠城戦が嫌なのか、信秀軍は撤退していきます。
ですが道三は織田の兵が撤退しようとしている時に、
すぐ出陣して信秀に奇襲をかけました。
信秀はこの道三の奇襲で重臣・青山矢右衛門信昌や、
弟・織田信康などを失い大敗しました。
加納口の戦い後
その後の斎藤道三(本木雅弘)と織田信秀(高橋克典)は、どうなったのでしょうか。
加納口の戦い後の織田家と斎藤家
織田家はこの戦いで、信秀の弟や多くの重臣を亡くし大敗します。
和議を結ぶことが検討され、織田信長(染谷将太)と帰蝶(川口春奈)が、
政略結婚することになりました。
信秀が死去してから嫡男・織田信長(染谷将太)が家督をついで、
足利義昭(滝藤賢一)を追放し室町幕府を滅ぼしたり徳川家康(風間俊介)と同盟して、
次々と大名たちを滅ぼして、勢力を拡大していきました。
織田信長肖像画
ですが重臣明智光秀(長谷川博己)に裏切られ、本能寺で自害しました。
信長の死後は次男・信雄が継ぎましたが、
豊臣秀吉(佐々木蔵之介)によって領地を没収されて僧侶となりました。
斎藤家ですが道三は織田家と同盟を結んで安心するも、
道三の長男・斎藤義龍(伊藤英明)が道三を裏切り、
義龍は次男・孫四郎(長谷川純) 三男・喜平次を暗殺します。

道三は信長と通じて織田家に美濃の国を譲ることを伝えていたらしいよ
道三と義龍は長良川で戦うこととなり、道三は負けて討ち取られてしまいます。
長良川の戦いはこちらの記事で紹介しています↓

父親との対決に勝った義龍でしたが、その5年後に病死します。
義龍の息子・龍興(たつおき)が斎藤家を継ぎましたが信長に攻められて
美濃の国から逃げ、大名としての斎藤家は滅びました。
まとめ
今回紹介した加納口の戦いは現在でも研究が続けられています。
加納口の戦いで信秀は子信長の勢力拡大のための基礎を作り、
道三は子義龍が自分を裏切るきっかけを作ることとなります。
麒麟がくるではこの2人はどのように生涯を描かれるのでしょうか。
麒麟がくるを見る参考になるといいです。
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