桶狭間の戦い(織田信長vs今川義元)信長の奇襲はほんとうだったの?

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2020年の大河ドラマ主人公明智光秀の主君・織田信長は、

若き日に大大名である今川家(今川義元)と戦っています。

 

今回は織田信長と今川義元の戦いである桶狭間の戦いを紹介します。

 

歴史を好きになるきっかけになったり、麒麟がくるを

見る参考にしてみてください。

 

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桶狭間の戦いってどんなたたかい?

桶狭間の戦いは、1560年に起こった織田信長と今川義元の戦いです。

 

織田信長は後に天下人となっています。

 

今川義元は「海道一の弓取り」(東海一の弓取)と言われて恐れられていました。

 

桶狭間の戦いは、織田信長が今川義元の本陣である

 

桶狭間山を奇襲した戦いと言われいます。この戦いは、1560年に

尾張の国(現在の愛知県)の豊明市で起こりました。

 

信長軍は元々、父・織田信秀の頃から対立していた今川義元を倒す

ために、今川軍へ寝返っていた城の(沓掛城・鳴海城・大高城の3つの城)

りに砦を築きます。

 

義元の軍は信長の作った砦を攻めていました。

その中には徳川家康(松平元康)もいました。

 

信長は砦を攻められ、家臣たちと作戦会議を開きますが、

家臣の意見がまとまらずやめてしまいます。

信長は義元の軍に対抗するため家臣たちに別働隊を任せて出陣させます。

 

義元の尾張に侵攻したのは、山城の国(現在の京都府の一部)に行き、

上洛(将軍と京に行くこと)するためとも、

尾張へ領土を拡大するためだったとも言われています。

 

信長軍は2000~5000の兵にたいして、義元の軍は20000~45000の兵

だと考えられていて、数の上では義元が有利と思われていました。

 

信長は今川義元の兵が尾張に進行している事を聞くと

すぐに出陣します。信長が出陣をする前に舞を踊ったと言われています。

 

その舞は「敦盛」といいます。

人間五十年、下天のうちを比べれば夢幻の如くなり。

人の世五十年間は天界の時間と比べれば、夢のように儚くあっという間のものという意味です。

この歌を歌い舞を舞ったという姿が「信長公記」に残されています。

 

桶狭間山で激突!

信長は急の出陣だったため、織田軍熱田神宮に行き休息をとりました。

信長は熱田神宮で武運を祈りました。

するとどこからか「チャリン」という音が聞こえてきました。

 

その音がきこえてくると、兵士たちの士気はたちまち上がったと言われます。

実はこれは信長が仕掛けたものだといわれています。

 

そして予想もしていなかった雨が降り始めます。

 

信長が「天が我らの味方に付いた」というとさらに兵の士気は上がりました。

 

そのころ義元は雨が降り始めているのに気が付き、桶狭間山で休息をとります。

信長はあらかじめ家臣に義元の本陣探らせていたため、

義元の本陣を知って桶狭間山を奇襲します。

 

 

これに気づかなかった義元は、信長の兵(毛利新介)に討たれてしまいます。

 

(義元が信長が攻めてきたことに気づかなかったのは、信長の家臣が

義元に酒を売らせたり、偶然出会った雨が降っていたのでその音で

聞こえなかったといわれています。)

 

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桶狭間の戦い後

桶狭間の戦い後の織田家と今川家

桶狭間で戦った今川と織田ですがその後はどうなったでしょうか。

 

今川義元が亡くなると、今川家は衰退してゆき、人質の松平元康は独立し

三河の国を取り戻します。

そして、同盟していた甲斐の国(現在の山梨県)の大名である武田家に裏切られ、

大名家としては、今川家は滅んでいます。

松平元康は、徳川家康となり三河の地を拠点に大名となります。

今川家の子孫たちは、徳川家康の時代の元で旗本として取り立てられ、

生き延びていきました。

 

一方織田家は信長が当主になってから領土を拡大していきます。

将軍・足利義昭と手を組みましたが、最終的に京から追い出し室町幕府は

終りを迎えます。

しかし、天下統一目前で、家臣の明智光秀の謀反により本能寺で自害しました。

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まとめ

今回の記事、「桶狭間の戦い」について現在も研究が進められています。

新たな発見があるかもしれません。

桶狭間で戦った今川義元は最強の武将といわれていましたが、桶狭間では

織田信長の1/10の数の兵力に倒されたため、近年まで残念な武将というイメージも

ありました。

織田信長においても、尾張のうつけものと言われていたことは有名です。

しかし、子供の中で優秀だった信長を父の信秀が暗殺されないように、

わざとうつけを演じさせていたかもしれないのです。

この桶狭間の戦いでの信長の作戦をみると、情報を集めて敵の位置を把握し、

少ない人数で勝利できたのですから、優秀な武将であったことは間違いないでしょう。

 

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