信貴山城の戦いは1577年に、大和の国の大名・松永久秀と織田信長の戦いです。
大河ドラマ麒麟がくるに登場する松永久秀の居城・信貴山城での戦いでしたが、
松永久秀討伐戦とも言われます。
今回は信貴山城の戦いをわかりやすくまとめて紹介します。
歴史好きになるきっかけや、麒麟がくるを見る参考にしてみてください。
信貴山城の戦いとは?
なぜ信貴山城の戦いが起きたの?
松永久秀は織田信長の同盟者でしたが、信長と将軍・足利義昭が対立すると、信長を裏切ります。
久秀は三好長慶のもとで3ヵ月の間に、大和の国の大名にまでなり久秀は
恐れられる存在となっていました。
信長には「九十九茄子」(つくもなす)という茶器を渡して、同盟をしていました。
信長は久秀が裏切ったことを知ると、大和の国を没収させます。
大和の国は塙直政(ばんなおまさ)の支配下となりましたが、
石山本願寺との戦い石山合戦で塙直政は、討ち取られてしまいます。
そのため大和の国は筒井順慶が任せられます。
久秀は自領の重要な拠点・多聞山城を、筒井順慶に破却されてしまい、
松永家は不安定な状況になります。
信貴山城の戦い
ついに松永久秀は息子の松永久通とともに、信貴山城に立て籠って信長を裏切ります。
久秀は翌日から信貴山城の補強工事を開始します。
信長は家臣を久秀の信貴山城に向かわせて降伏するように言います。
松永久秀は織田信長の説得を受け入れませんでした。
織田信長は筒井順慶、明智光秀、細川藤孝を法隆寺へ向かわせて、久秀討伐の先軍にします。
同年の、10月ごろに織田軍は、久秀の持っていた片岡城を5千の兵で攻め込みます。
これに対して松永軍は約1000兵で織田軍と戦います。
やがて戦いが終わり、筒井軍にも戦死者は出ましたが、松永軍は重臣を含む約150人の
死者が出ました。
しかも片岡城は落城してしまいます。
信長は対立していた上杉謙信の進軍が止まったため、加賀に出陣していた
織田信忠・佐久間信盛・羽柴秀吉などを、信貴山城に送り、
この軍は4万の兵で信貴山城を一斉に攻撃しました。
ですが信貴山城はなかなか落城しませんでした。
久秀は信長の兵が圧倒的に多かったため、石山本願寺に援軍を頼み、
加賀鉄砲衆200名を送られて中国地方の毛利家と本願寺の更なる援軍が
3日以内に到着することを伝えられました。
ですが信貴山城の天守に近い三の丸が焼けたため、松永久秀とその長男・久通は自害します。

DSC_0312
信貴山城の戦い後
信貴山城の戦った織田家と松永家ですが、信貴山城の戦い後はどうなったのでしょうか?
信貴山城の戦い後の織田家と松永家
まず松永家は久秀とその長男・久通が死んでしまったため、松永家は大名としては
滅びますが徳川家康の開いた江戸幕府では、文化人として松永家は活躍しました。
松永久秀は信貴山城の戦いで死ぬときに、爆死したといわれています。
久秀は自分が好んでいた「平蜘蛛の茶器」に火薬を詰めて、ともに爆死したという
伝説が広まったそうです。
織田家は信長が勢力を拡大していきました。
信長は天下統一目前で重臣・明智光秀に本能寺で裏切られて、自害しました。
その後の織田家は織田信雄が継ぎ、改易(領地没収)されながらも徳川政権下で
大名として活躍しています。
まとめ
松永久秀は、悪人や裏切者のイメージが付きまとう人物でありましたが、
最近では研究が進み、そうばかりではないようです。

麒麟がくるでも、光秀を助けたりする場面もありますね。
この信貴山城上の戦いにより、松永久秀は亡くなり、松永家は大名としてではなく、
子孫は江戸幕府で文化人として活躍します。
織田家も改易されましたが、江戸時代では大和の国の大名になっています。
明智光秀はこの戦いで、信長の嫡男・信忠に従い、信貴山城を攻め落としました。
麒麟がくるでは、松永久秀は光秀をかわいがってくれていたシーンが
ありましたね。

どの様にこの戦いが描かれるのか、楽しみですね。
コメント