2021年青天を衝けは、渋沢栄一が主人公の大河ドラマです。
渋沢栄一は清水銀行や帝国ホテルなどを作った実業家です。
栄一がそんな実業家へと進むきっかけとなったのがパリ万博でした。
今回は、パリ万博とパリに使節団としていった有名な人物のその後について記事にまとめました。

パリ万博って何かしら?

どうして栄一はパリ万博へ行ったのかな~?
パリ万博って何?歴史と開催された理由とは?
パリで開かれた万国博覧会
渋沢栄一たちが行った1867年のパリ万博は、日本が初めて参加した万国博覧会です。
江戸幕府、薩摩藩、佐賀藩が出展しました。
パリ万博は、フランスの首都であるパリで開かれた万国博覧会のことです。
万博の中では、アメリカに続いて多く、万博を開いたパリの地で来客した人数もアメリカに続く2位です。
パリ万博の開かれた年と、来客人数をまとめました。
開催年 | 国際博覧会の名称 | 開催地 | 開催日数 | 入場者 |
1855年 | パリ万国博覧会 | フランス-パリ | 200日 | 516万人 |
1867年 | パリ万国博覧会 | フランス-パリ | 210日 | 1020万人 |
1878年 | パリ万国博覧会 | フランス-パリ | 190日 | 1610万人 |
1889年 | パリ万国博覧会 | フランス-パリ | 180日 | 3235万人 |
1900年 | パリ万国博覧会 | フランス-パリ | 210日 | 4768万人 |
1925年 | パリ万国博覧会 | フランス-パリ | - | 1600万人 |
1937年 | パリ万国博覧会 | フランス-パリ | 93日 | 870万人 |
1947年 | パリ国際博覧会 | フランス-パリ | - | – |

上の図のようになったよ。
1900年のパリ万博では、実はオリンピックが同時に開催されています。
万博の隣には、オリンピックをやっていたそうです。
これまでの万博を開いた中での来客数では、一番を誇りました。
パリ万国博覧会が開催された理由とは?
パリ万博は、ナポレオン三世がフランスの財産を立て直すため財政難を乗り越えるためにやったものと言われています。
ですが、この時の万博で出る利益は支出の半分ほどでした。
ナポレオン三世は、各国で参加を呼び掛けてパリ万博に来たのが幕府から派遣された渋沢栄一(吉沢亮)や徳川慶喜(草彅剛)の弟・徳川昭武(板垣李光人)らでした。
幕府から派遣された使節団は、パリやヨーロッパの各地を巡り日本との違いを学び日本を発展させるために努力したのです。
日本からパリ万博に参加した人物は誰?
幕府から派遣された使節団の有名な人物紹介!!

幕府から派遣された使節団の中には、どんな有名な人物
がいるんだろう?
渋沢栄一
渋沢栄一は、平岡円四郎の推薦により一橋家家臣に選ばれて平岡がなくなるとその意思を次いでパリ万博に行きヨーロッパを巡りました。
そしてのちに、帰国すると日本を発展させるために努力し今の清水銀行や帝国ホテルなどの会社を基礎を作るのです。
徳川昭武
徳川昭武は、青天を衝けでなんといっても約ネバ登場の板垣李光人さんが演じます。
この時、昭武が万博に行ったのが15歳でした。
兄の徳川慶篤がなくなると、昭武は水戸藩主となり学校の校長となりました。
高松凌雲
高松凌雲は、幕府に使える奥医師として仕えていて外国の西洋手術を学ぶためにパリ万博に行きました。
パリから帰ると凌雲は、パリで学んだ十字活動をいち早く実施しました。
自分は、妻の癌を治療したといわれています。
栗本鋤雲
栗本は、幕末の幕臣として徳川昭武の補佐としてパリ万博に行きました。
ですが、慶喜が大政奉還したことを知るといち早く帰国しました。
そして、戊辰戦争で旧幕府軍として参加して戦ったのです。
このように渋沢栄一や高松凌雲らは、パリ万博での経験と知識を働かせて世の中に貢献しました。
渋沢栄一は、日本の株式会社の基礎を作ったり高松凌雲は十字活動を日本で最初に行いました。
ほかにも、万博の博覧会で様々な幕府の家臣が学びに行きます。
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