比叡山延暦寺焼き討ちとは麒麟がくる明智光秀のおかげで死者が減った?

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戦国武将の中でも人気ナンバーワンと言われるのが織田信長。

しかし、数々の残虐行為も行ったといわれています。その中の一つが比叡山延暦寺に

火をつけ多くの僧が亡くなりました。

信長はなぜ、お坊さんと戦い、比叡山延暦寺に火をつけたのでしょうか?

今回は織田信長と僧兵集団が戦った、比叡山焼き討ちを紹介します。

歴史好きになるきっかけや麒麟がくるを見る、参考にしてみてください。

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比叡山焼き討ちってどんな戦い?

 

比叡山焼き討ちはなぜ起こったの?

この当時の比叡山の僧たちは、武士のように武装していました。

比叡山の軍は織田信長と対立していた、浅井長政や朝倉義景の軍事行動

に協力していました。

しかもこの僧たちは、民から金を

稼いだり奪ったりして、やりたい放題の生活を続けていました。

 

比叡山実際に信長から、「まっとうな寺になれ」と何回も

使者を送りましたが、比叡山方は

「お金をあげますから勘弁してください」

と金で解決しようとするのです。

 

この寺には逃げ出した僧もいて、残った僧たちは信長がさすが

に「仏教には手を出すまい」といい信長が比叡山を焼くなど思っ

てもいませんでした。

 

比叡山焼き討ち

ついに信長は明智光秀を大将として、1571年比叡山焼き討ちを実行します。

比叡山の僧たちは、信長が攻めることを予想していなかったため

比叡山はすぐに焼かれてしまいます。

 

信長軍は30000の兵で比叡山の死者は数千人(信長公記)と、書かれています。

実はこの死者は信長をナメていた僧なのです。

ほかの僧たち(高僧)は、光秀が信長やその兵たちに気づかれないよう

逃がしたといわれています。

 

ですが信長も寺にいた女や子、住民を攻撃が開始されてから

2000~3000も殺したと言われています。

比叡山は一日で灰になってしまいました。

 

また比叡山はすべて焼け落ち、信長は比叡山から自分で逃げて日吉大奥宮

に来た僧を討ち取るということもしたそうです。

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比叡山焼き討ち後はどうなった?

 

焼き討ち後の織田家と比叡山

比叡山焼き討ちで戦った織田家と比叡山の僧ですが、

焼き討ち後はどうなったのでしょうか。

 

まず比叡山延暦寺は、信長に焼かれてから復活することは

なかなかありませんでした。

甲斐の国(現在の山梨県)の武田信玄は復活させようとしますが、

心半ばで亡くなります。

 

その後は豊臣秀吉によってやっと復活することができました。

比叡山の僧たちは甲斐の武田信玄を頼って、暮らすことになりました。

次に織田家は比叡山焼き討ち後に、朝倉家や浅井家を滅亡させて領地を拡大

していきました。

将軍の足利義昭を京から追い出して、室町幕府を終わらせました。

ですが信長は、天下統一目前にして明智光秀に裏切られて本能寺で自害しました。(本能寺の変)

 

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まとめ

今回紹介した比叡山焼き討ちは現在でも、研究が進められています。織田信長は

比叡山焼き討ちなどで、子や女や僧などを皆殺ししているので「悪」と

言われることもあります。

 

ですが信長も僧たちが仏教に背いている行動や、対立していた朝倉家に味方したため、

比叡山焼き討ちを行ったのです。

今回紹介した比叡山焼き討ちで出てきた明智光秀ですが、

焼き討ち後に坂本城周辺を収める大名になり、最終的には丹波・丹後を収める

「国もち大名」になっています。

くまのこ
くまのこ

麒麟がくるでも登場するので参考にしてください。

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