大河ドラマ麒麟がくるの明智光秀の生涯についてわかりやすく説明します。
前回は光秀が生まれてから成長し、織田信長に仕えるまでを記事にしました。
その記事はこちら。
今回は信長に仕えてから、本能寺の変をおこし、山崎の戦いで敗れた明智光秀の生涯を説明します。
今回も人物名の後のかっこにキャスト名を記しています。
大河ドラマを楽しむ参考にしてください。
明智光秀が信長に仕えてから
光秀は織田家の出世頭
織田信長の家臣となった明智光秀(長谷川博己さん)の活躍は、1569年ごろから記録にはっきりと残されています。
第14代将軍足利義昭(滝藤賢一さん)は、京都本圀寺(ほんこくじ)で三好三人衆に襲撃される本圀寺の変がおこります。
この時光秀は、盟友の細川藤孝(眞島秀和さん)や三淵藤英(谷原章介さん)らと防戦し、三好軍を撃退します。
信長の後ろ盾があって、義昭はもうあまり力のない室町幕府の最後の将軍になったけれど、それをよく思わない三好軍が攻め入ってきたのね。
1570年、織田信長(染谷将太さん)は越前(福井県)の朝倉氏の領地に攻め入ります。
しかし、信長と同盟していた浅井長政の裏切りにあい、兵を向けられ挟み撃ちとなるという信長軍最大の危機が訪れます。
退却をすることになる信長軍は、しんがりをつとめた羽柴秀吉(佐々木蔵之介さん)を光秀は助け、窮地を救ったといわれています。
この羽柴秀吉しんがりの援軍を、金ヶ崎の戦いといいます。
しんがりっていうけど、なぁ~に❓
しんがりはね、自分の主君を撤退させるために使う最後尾の軍よ。敵の追従を逃れるために犠牲になる人が多いの。でもこの時光秀たちは最低限の犠牲者におさえることができたのよ。
だから光秀さんはすごいんだね!
また光秀が活躍したといわれる戦いに、1571年の比叡山の焼き討ちがあります。
これは信長が命令し、光秀が比叡山の延暦寺に火を放ち焼き払います。
当時の延暦寺の僧は、周辺の土地を管理し勢力を広げ、信長と対立関係にありました。
この頃の僧は、今とはずいぶん違っていたのよ。
当時の比叡山の僧侶は、庶民にお金を貸していました。
お寺の僧が金貸しをすることがあったのですが、比叡山の僧の場合は
高い金利で貸し付けていたため、庶民から恨まれてもいました。
光秀はこの活躍によって、褒美として現在の滋賀県に城を持つことができます。
それが坂本城です。
古くから仕えていた家臣を飛び越えた異例の出世となりました。
坂本城についてはこちらも記事にしています。
光秀が最も活躍した戦い
1575年信長は光秀に丹波の国を平定するよう命令します。
数年かけてほぼ独力で丹波・丹後を攻略したため、織田家の中で光秀の地位は確固なものとなりました。
光秀が指揮をとった戦いは19回くらいあって、織田家の家臣の中で最もたくさんの戦いに参加した1人なのよ。
すごく強いし、歌やお茶もできる文化人だったなら、信長の信頼も厚かったんだね。
本能寺の変と光秀の最期
多くの功績をあげて、織田家屈指の重臣となった光秀。
1582年織田信長は光秀に羽柴秀吉の応援に向かうよう命じます。
ところが光秀は秀吉の援護のため、備中(岡山県)へ行くと見せかけて、信長の滞在する京都・本能寺へ向かい6月2日の早朝に寺の周囲を取り囲みます。
信長も応戦しますが、圧倒的な兵の数の差で、もはやこれまでとし、自刃します。
これが本能寺の変であり、光秀は家臣が逆らって主君を討つという下剋上であったのです。
信長が討たれたことを知った羽柴秀吉は、「信長さまのかたきをとろう。」として戦っていた毛利と和解して、急いで京都に戻ってきました。
これを、中国大返しと言います。
「秀吉さん、主君の敵討ちですね。」
そして光秀は、備中高松から舞い戻ってきた秀吉と京都郊外の山崎で戦います。
光秀軍1万数千に対し、秀吉軍は3万と圧倒的に不利でした。
光秀は戦いに敗れ坂本城へ落ち延びます。
しかし、途中で農民におそわれて、亡くなりました。
明智光秀については、こちらの記事でも紹介しています。
本能寺の変は謎に包まれた日本史上最大のミステリー
本能寺の変はいまだ解明されていないことがあります。
光秀が信長を討った理由そのものが明確になっていません。
10年以上信長の右腕として文武ともに頼りにされていた光秀。
本能寺の変の1年前には、光秀の家臣に、今のようになれたのはすべて信長様のおかげであると
しみじみと語ったそうです。
その1年の間に何があったのでしょうか。
わかっていないので、本能寺の変がおこった理由について様々な説があります。
大きく分けると、明智光秀が単独犯であった説と、背後に黒幕といわれる人物がいたという説。
それぞれに、複数の説があります。ちょっと見てみましょう。
明智光秀単独犯説は、野望説と怨恨説
光秀が単独で計画実行した説の中で、天下を自分のものにしたかった光秀が
一人で起こしたという野望説は古くから語られていました。
また有力な原因があるとされる怨恨説にもさまざまな説があります。
徳川家康をもてなす役になった光秀が、用意した食事の生魚が腐っていて、信長がひどく怒り、接待役を解任されたこと。
秀吉を助けるために光秀に援軍に向かうよう言われ、信長にとって秀吉よりも格下に扱われたということ。
またその援軍に行き勝利すれば、出雲と石見の二か所を与えるが、光秀の領地である丹波と近江を取り上げられたこと。
波多野氏に人質に出していた自分の母親を、信長が約束を破ったために結果殺されてしまったこと。
など、さまざまな理由がいわれています。
主君と家臣という関係でも、光秀さんすごくかわいそう。
それでも真面目で文武に優れた光秀が本能寺の変を起こした決定的な理由とは結論ついていないのよ。
黒幕説は後の世に創作された物語が多数
光秀の背後に、誰かがいたとするという黒幕説も数多く残されています。
ざっとご紹介します。
信長が敗れたことを知った秀吉は、中国大返しという考えられないような速さで
京都に戻ってきます。
ちょっと早すぎない?光秀に謀反をおこすよう仕向けたのかなって説だね。
また、将軍足利義昭説は、もともと義昭に仕えていた光秀は、信長の無茶なやり方に疲弊していたともいわれます。
そんな時に義昭が近づいてきて光秀の過去の功績をほめたたえ自分ならもっといい待遇にしたのになどと言ったかもしれません。
もっと評価されてもいいのに・・・と思っていたとしたら、ぐらっと揺れちゃうかも。
これらの黒幕説は物語的な要素があるので、今では有力とはされていないようです。
また最近では、四国攻め回避説は注目されています。
これは、光秀は、四国を治めていた長宗我部元親と信長の間を取り次いで関係を友好に保っていました。
しかし信長が政策を変更して、元親から領地を取り上げようとします。
光秀はこれまで苦労したことがすべて無駄となり、面目もつぶれてしまいます。
これが引き金になった・・とされる説です。
どれもなるほど・・・と思う説ですが、結論には至っていません。
だから日本史最大のミステリーなんだね!
麒麟がくるでは、どのようなストーリーになるのでしょうか。
本能寺の変はドラマの中では終盤になりますが、今から楽しみですね。
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