青天を衝けの渋沢栄一はなぜ日本資本主義の父とよばれたの?

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2021年大河ドラマ「青天を衝け」渋沢栄一(吉沢亮)。

主人公の渋沢栄一は、日本資本主義の父と呼ばれていました。

また、2024年の1万円札の顔にもなっています。

今回は、渋沢栄一はなぜ資本主義の父と呼ばれていたのか?そしてその凄さを記事にまとめました。

くまぞう
くまぞう

大河ドラマ青天を衝けを見る参考になるといいです!

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渋沢栄一の生涯まとめ

栄一は、武蔵の国(現在の埼玉県)で1840年3月16日に生まれます。

最初は、農民でしたが一橋家に仕え幕臣になります。

この時の一橋家の当主は、一橋慶喜(ひとつばしよしのぶ・15代将軍・徳川慶喜)でした。

慶喜の幕臣になると1867年パリ万博に視察に行き、西洋の発展を目の当たりにした栄一は、帰国後まだ江戸時代の名残が残る日本で資本主義や新しい経済体制を築き、日本の経済の発展に導きました。

 

大蔵大輔(おおくらだいすけ)・井上馨(いのうえかおる)の下で財政政策を行いました。

明治に入っても江戸時代の尺貫法を使用していた為、近代化のためには単位を国際化が不可欠と考えて度量衡の改正に携わります。

また銀行の設立と同時に、金・銀本位制から紙幣制度への移行を推進しました。

 

その後、政府の方針に反対し、官僚をやめた栄一は、多くの会社の設立・運営などの仕組み作りに関わりました。

 

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栄一の功績

渋沢栄一の主な功績について紹介します。

パリ万博使節団の一員としてフランスへ

1867年栄一が、27歳の時に慶喜の命令でフランスのパリに行きます。

パリの万博使節団(ばんぱくしせつだん)として、慶喜の弟・昭武と一緒に行きました。

 

日本初の株式会社を設立

パリから帰ってくるとフランスで学んだことや経験を生かして、静岡に日本初めての株式会社を作ります。それが、1869年に栄一が作った「商法会所」です。

 

商法会所(しょうほうかいしょ)は、会所を通じて販売を誰でもできるような仕組みを作り、産業を興して藩の借金をへらします。

さらに大蔵官僚になると日本型資本主義の原型を構築し、日本全体の商業を活性化させました。

栄一が設立に関わった企業は500社以上におよび、現在も半分以上の企業が現在も残っています。

 

日本初の銀行「第一国立銀行」を設立

栄一は官僚時代に設立にかかわった第一国立銀行の頭取に就任します。

日本の銀行を中心にした金融システムを構築しました。

以後も多くの銀行の設立に関わりました。

現在では、日本最古の銀行となっています。

国立銀行を作ったのは、静岡藩より出仕することを慶喜にゆるされるも、慶喜に「これからは、お前の道を行きなさい」と言われて幕臣を辞めた後のことでした。

 

社会福祉に尽力し、学校や病院を設立する

栄一は経済の発展の他に、誰もが幸せになるための団体の設立にも関わっていました。その数は600以上と言われています。

東京証券取引所、東京商工会議所の設立の他、学校や病院、慈善団体で困窮者への福祉に尽力します。

 

1876年37歳の時に栄一は、東京府養育院務長(とうきょうふよういくいんぶちょう)になります。

 

東京府養育院務長になると、栄一は養育院を作ります。

養育院は、老人、病人、障がい者の人の保護施設を設立します。

もともとは、江戸時代に幕府が設立した無料の小石川養生所がもとになっています。

 

さらに、栄一は東京養院院長(とうきょうよういんいんちょう)にもなりました。

栄一は施設の地盤固めを行い、以後50年間院長をつとめました。

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まとめ

栄一は、パリ万博使節団としてフランスに行きその知識を生かして、明治政府の官僚として日本の経済の発展に関わります。

 

明治政府を離れてからは、日本初の株式会社を設立しました。そのほか経済の発展は日本の発展につながると考え、500以上の企業の設立に関わりました。

また、社会福祉時評に関わって多くの人の幸せのために学校や病院などの施設や団体の設立を600以上関わりました。

 

高い理想と信念を貫いて行動力を持って日本の経済の発展をけん引した渋沢栄一は、日本資本主義の父とよばれているのです。

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